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Vol.0027 「香港編」 〜それぞれの6月4日〜

1989年6月4日。13年前の私は香港で暮らしていました。海外で働く日本女性なるものがまだ物珍しがられ、日本がバブル経済の絶頂期にあった頃で、独身の身軽さもあって今日はこの店、明日は誰それ・・・と、公私共に忙しくノー天気に暮らしていました。香港もアジアの四匹の龍の一匹に数えられ、韓国、台湾、シンガポールとともに、上り龍の勢いを謳歌しているところでしたから、身の回りは景気のいい話であふれていました。

その頃の中国は改革開放路線が軌道に乗り始めていたとはいえ、まだまだ緑の人民服に自転車のイメージが色濃く残る眠れる大国でした。当時の私は完全週休2日の金融機関に憧れながら土日出勤も厭わない広告代理店勤務でした。その頃の香港では中国語(中国の公用語である、いわゆる「普通語」のこと。香港の公用語は「広東語」)を話す人がまだ少なかったこともあり、日本人の私の中国語でさえ重宝がられる状態で、私はかなり頻繁に中国へ出張していました。

89年4月。すでに失脚していたものの穏健で学生に人気の高かった胡燿邦総書記が死去すると、彼の死に哀悼の意を捧げる北京大学の学生などが天安門広場に集まり出しました。始めは小さなニュースで胡燿邦もその時点では過去の人だったのですが、それを聞きつけた地方の大学生までもが列車や徒歩で天安門に向かい始めたあたりから話が大きくなってきました。それでも学生達に同情した鉄道が無賃乗車を認めただの、ほのぼのとしたもので、胡燿邦は口実で学校をサボって北京へ物見遊山という学生もかなりいたはずです。

ところが学生の数が日増しに膨れ上がるにつれ、問題が政治化し始め、胡燿邦の名誉回復という現政権には受け入れがたいものになっていきました。ばらばらだった学生もハンストに入ったり、政権トップの辞任を求めるなど民主化を求める方向で足並みが揃ってきていました。更にそれに賛同する一般市民も加わり、大きなうねりができていくのに1ヵ月もかかりませんでした。数万から十数万人にまで達した天安門に集まった人たちを北京市民の炊き出しが支え、地方都市でも学生を中心に似たような動きが起きるなど、うねりのすそ野は枯れ野に火を放つように広がっていったのです。

こうした動きは報道の自由が保障されている香港では逐一見聞きできましたが、中国では共産党機関紙の「人民日報」や国有テレビが真実の報道を封じてしまったので、実際に天安門で何が起きているのかが国民に知らされないままいろいろな憶測が飛び交い、緊張感は高まっていくばかりでした。

そして6月4日。人民解放軍の戦車が天安門広場に入り、丸腰の学生達に銃口を向けるばかりか、その銃口が火を噴くという悪夢のようなことが現実となってしまったのです。逃げ惑う人々。「救急車を!」という絶叫。既に息がなさそうに見える負傷者を扉に乗せて荷車で押して行く人々。映画でしか聞いたことがなかった絶え間ない実弾の音。学生達が精神のより所として作った自由の女神を模した「民主の女神像」がゆっくりと倒されていくスローモーションのような映像・・・香港の私たちどころか、世界中の人々がその衝撃をつぶさに目撃したのでした。

香港人の衝撃はこれを遥かに越えるものでした。内戦時でもない平和な時代に中国人が中国人を殺すという現実は彼らを立ちすくませ、8年後に迫った97年の中国返還への不安が一気に噴き出しました。「彼らと同じになる・・・」その思いは香港人にとって答えの出せない究極的な選択への回答を即座に求めるものでした。学生と同じように犬死するのはとんでもないが、その彼らに銃を向けることを肯定することも到底できない・・・しかし、自由がない以上、そのどちらかを選ばなければならないとしたら・・・・・。

彼らの将来への懸念は想像を絶するほど大きくなっていきました。そうでなくても返還を嫌って海外へ移民していく人が跡を絶たない頃でしたから、この事件が残った人々の背中を更に押し、「どの国でもいいから・・・」と、海外へ向かわせることに拍車をかけたのは言うまでもありません。現に身の回りでも「私達は絶対移民しない。どうなっても香港は我が家」と言ってはばからなかった親しい友人や同僚達が、異口同音に「私達はどうでもいいの。でも子供には将来があるから」と言い残して一人また一人と去っていきました。天安門で犠牲になったかなりの人がまだ社会に出ていない学生だったということは、年齢は違っても子を持つ親には居ても立ってもいられないことだったのかもしれません。(つづく)

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「マヨネーズ」 ワールドカップが始まり、中国−コスタリカ戦があった時などはオフィスは閑散、その日の香港株式市場の出来高も落ち込むほどでした。世界中にこの4年に1回の一大イベントに身も心もそぞろになっている人たちがあふれているのでしょう。これを書いている7日夜もイングランド−アルゼンチン戦があり、イングランドが1−0で勝利を収めたので喜び勇んだ旧宗主国イギリス人達が街に繰り出しています。試合が終わった数時間後の今でも、普段は静かな住宅街である西蘭家付近でさえ、試合観戦からそのままパーティーへと流れたらしい楽しそうな歓声が、ご近所のベランダから響いてきます。世界の感動が一つになっている一方で、アフリカでは1,500万人が飢饉に苦しみ、まさに生きることへ懸命の努力を続けているかと思えば、カシミールを巡ってのインド・パキスタン情勢の緊張も続いています。W杯の報道が全面に広がる中で、脇へ脇へと押しやられて相対的に小さくなっていくこの手のニュースがつい気になってしまうここ数日です。

西蘭みこと

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