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Vol.0029 「香港編」 〜それぞれの6月4日 その2〜

2002年6月4日。私は真昼の陽の暖かさが残るビクトリア公園のグランドの上に直に座っていました。隣には8歳の長男もいます。私たちの前には真っ白なカサブランカをまとったように上向きに白い紙の笠がついたキャンドルが一本置かれています。こうしたキャンドルが夜風に炎を揺らめかしながら、光の絨毯のように何万本も並んでいます。香港随一の繁華街であるコーズウェイベイのビクトリア公園に集まった数万人の人々は、キャンドルの炎を見つめながら13年前の記憶に思いを馳せていました。

天安門事件13周年記念追悼集会。主催者側によると今年は4万5,000人が集まったそうです。毎年6月4日に開催されるこの集会に私は時間が許す限り出ています。子供を連れて来たことも何回かありますが、彼らにとってはいつもより夜遅くまで外にいられるのが嬉しいという程度のことでした。でも今年、長男は自分の意思で付いて来ました。自分が生まれる前に起きた"中国人が中国人を殺したこと"について、中国人である香港人に囲まれている環境の中で、知りたくなったようです。

集会では大きな屋外スクリーンに当時テレビで何度も繰り返された映像が流されました。「最後の一人になっても民主のために闘おう!」という学生たちのスピーカーごしのシュプレヒコールに重なるように、ダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッという無機質な銃声の音が等間隔で流れたかと思うと、あとには怒声と悲鳴がないまぜになった、あの頃耳の奥から離れなかった声、声、声・・・が響き渡りました。

遠くの方にかろうじて見えるスクリーンの映像を追って、事の展開を長男に説明しましたが、記憶が蘇ってくるにつけ胸が締めつけられるようでした。「なぜ放水や催涙ガスではいけなかったのか、なぜ実弾でなくてはいけなかったのか」という誰かの叫びが胸に刺さります。普段は思い出すことすらない気持ちが、毎年この一時だけはほとんど風化することなく、原型のまま蘇って来るようです。

事件後数日間は誰も仕事が手につかず、香港全体が喪に服していました。「ゼネストに入る」という未確認情報も流れ、「翌日は会社も休みか」というところまで来ていました。しかし「中国政府を刺激し過ぎたら、境界線を越えて香港にも戦車が入ってくる」という観測がまことしやかに流れ、当時はそれが全く荒唐無稽な話には聞こえなかったので、結局ゼネストは幻になりました。

その代わり、その後数週間は100万人規模の週末デモが続き、経済政治の中心であるセントラルから追悼集会会場となっているビクトリア公園までの数キロが人で埋め尽くされました。私も香港人に混じって数回デモに行きましたが、最大だった時には香港中のあちこちで行われたデモに計200万人以上が参加したと言われ、当時の人口の約3分の1が参加した計算になります。でもそれが大袈裟に聞こえないほど、街中が沈み、同時に何かをしなくてはという焦燥にかられていたのです。

そんな中で香港人が精を出していたことの一つに「命のファクス」がありました。これは知っている中国のファクス番号に香港での報道のコピーを手当たり次第に送ると言うもので、取引先、友人、公共機関を問わずできるだけ多くの番号に送り、報道管制が敷かれていた中国の人に何が起きたのかを知ってもらおうという動きでした。ただし、送ったこちらの身元も出てしまう会社のファクスは使いづらく、家にファクスがある時代でもありませんから、皆が安全に送れるファクスを探していました。

そんな時あるところから、「取引先に日系大手家電メーカーがあったでしょう?ファクス貸してもらえないかな?」という問い合わせを受けました。その取引先は事務機器も扱っていたのでもちろんファクスもあり、早速、親しくしていた修理部門の香港人責任者に問い合わせてみると、いつもジョークで笑わせてくれる彼が、「下取りした中古品は既にしかるべきところに貸し出している」と真顔で打ち明けてくれました。みな居ても立ってもいられなかったのです。

89年9月。事件から3ヶ月後。まだ事件の記憶が生々しく、誰も中国を好き好んで訪れたりはしない頃、プライベートで北京に出かけてみました。事件の片鱗を伺わせるものが全くなくなり、テレビに連日映っていたのと同じ場所と思えないほどきれいに片付いた天安門広場。物々しい警備の中、カメラを下げた観光客に混じってポケットに手を入れたまま歩きながら黙祷を捧げました。献花一つも許されず、ただ無表情に通り過ぎていくしかなかったのです。頭上には青く広い秋の空が無限に広がっているばかりでした。

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「マヨネーズ」 「外国朋友、これを見てくれ」。私が外国人とわかったらしい中年の男性に天安門から帰る途中で呼び止められました。彼が指差したものは街路樹の幹に水平に刻まれた銃弾の跡。広場からかなり距離があったので、広範な銃撃を改めて思い知らされました。「カメラを持っているんだろう。これを写真に撮って国へ帰ったらみんなに見せてくれ。」そう言うと、彼は足早に去って行きました。その後も胸の高さ辺りについたその手の跡を何ヶ所かで目にしましたが、彼に教えられなければ見過ごしていたかもしれません。その時は、バスに乗っても人込みでも「対不起」(すいません)、「謝謝」(ありがとう)という二言を本当によく耳にしました。いつも我先で、めったにそうした言葉を交わさない当時の中国人たちが、耐え難い共通の痛みから立ち直ろうとする中、短いながらも弔いと慰めの暗号で見知らぬ同士を励ましあっているかのようで、事件の陰をそこ見た気がしました。

西蘭みこと

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