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Vol.0047 「NZ・香港編」 〜遠くにありて〜

陽の長い夏の夕暮れ時。夕食にするにはあまりにも早い時間でした。しかし、子供たちが「お腹が空いた」と言い出し、ちょうど手頃な中華料理の店を見つけたこともあって、私達はアッシュバートンで車を止めました。午後6時。店にはお客が一人もおらず、華人系の女性が一人、ポツンとカウンターに座っていました。彼女を見るなり、自然に口をついて出てきた一言が「あの、もうオープンしてますか?」だったくらい、ガランとした店でした。

それでもカウンターの横にはビュッフェ用に大盛りになった料理がいくつか並んでいます。子供たちは待たずに食べられるので大喜び。さっそく揚げワンタンなどを取ってきました。注文を取りにきた彼女は眉間に深く皺が刻まれた、寂しそうな面影の人でした。中国人は普通、見知らぬ人に愛想を振り撒く人たちではありませんが、フレンドリーなキウイを見慣れた目にはニコリともしない表情がとても強張って見えました。

注文を済ませ、次々に料理が運ばれあっという間に食べ終わってしまうと、彼女がお茶を注ぎに来てくれました。自然と言葉を交わし始め、私達が香港から来たとわかると、彼女は初めて自分のことを話し始めました。「私も香港から着たのよ。14年前にね。夫はもう少し早く来ていたんだけど」。80年代後半の香港は中国への返還が10年後に迫り海外移住がピークを迎えていた頃でした。私も同僚や知り合いをどんどん失っていきました。彼女達もそんな移民組だったのかもしれません。

「香港は変わってしまったんでしょうね」。相変わらず誰も来ない店の中で、彼女は私達に聞くともなく、まるで独り言のように言いました。ここにいるのが嬉しくはなく、かと言ってもう戻れないと諦めてでもいるような物言いで。「不動産もとても上がったったんでしょう?」と聞かれたので、「すごく値上がりしたけど、今では10年以上前の水準にまで値下がりしてるわよ」と答えました。

香港人はとても不動産投資に熱心で海外移民した人達が最も気にしているのが、往々にして不動産価格なのです。「あのまま持ち続けたら、2倍、3倍になっていた」と思うと、さすがに惜しいのでしょう。しかし、その名の通り動かすことのできない資産ですから、どんなに値上がりが期待できても海外まで持っていくことはできません。私の答えは事実でしたが、その辺の事情を知っていたので、彼女を慰めたいという思いも多少こめられていました。不動産は返還後5年間で、本当に半分以下にまで値下がりしていたのです。

彼女の思い出の中の香港。それはどこから沸いてくるのかと思うほどの活気に溢れ、自信満々だった頃の香港。不動産を始めいろいろなものがどんどん値上がりしていった頃でもあり、奇跡的な成長を遂げる"アジアの四匹の龍"の一匹として脚光を浴びていた頃でもありました。返還への不安が地下水のように社会の根底に流れてはいたものの、目に見える日常の生活はインフレと手を携えた、登り龍の勢いを肌で感じるものでした。激しいインフレの中、株でも何でも「何か買わなくては・・」とみんなが焦り、焦って行動に出た分、見返りのある環境でもあったのです。一生懸命頑張れば、必ず報われると誰もが疑わなかった、まっすぐで明快だった時代・・・。

それは、私がパリからスーツケース一つ提げて降り立った頃の香港でもあります。香港のことなど何も知らなかったのに、「絶対、何かできる!」と、ゾクゾクするような期待で胸がいっぱいでした。仕事を見つけてここに住み着き、営業に、出張にと飛び回り、アフター5は友達と街に繰り出し、熱に浮かされたような香港を縦横無尽に闊歩していました。そんな頃の香港は彼女にだけでなくみんなにとって懐かしいものであり、誰も戻ることのできない場所でもあるのです。

その時、店の中を探検していた子供たちが、「ママー。この香港、"バンク・オブ・チャイナ"がない〜」と言って、店にかかった一枚の写真を指差していました。それは香港の写真では定番とも言える、九龍側から映した香港島の高層ビル群でした。確かに89年にできた、今では香港の摩天楼の顔であると同時に、中国返還の象徴でもある中国銀行ビルが写っていません。その時、不意に彼女が苦笑して、「そうね、古いからね」と息子に言いました。初めて彼女がニコリとしたのです。懐かしい、中国銀行ビルがない頃の香港は、写真の中に少し色あせて残っているばかりでした。

「ここでの14年は幸せでしたか?香港に残った友人が羨ましいですか?」。写真を指差しながら話す子供の相手をしてくれている彼女の横顔に、私は心の中で語りかけていました。「二つの生を同時には生きられない。どこかで決心しなければ。そして決めた以上はとことんやってみなくては。でも、それでも、どうしてもだめだったら元の場所に戻ればいい」。それは同時に、十数年を経て彼女の後に続こうとする自分に贈る言葉でもありました。「だけど、あなたはここに踏み留まって店まで構えたではないの。遠くにありて想う故郷はいつでも、いつまでも輝いて見えるものなのよ、きっと」。

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「マヨネーズ」 中国銀行ビルを施工したのは大手日系ゼネコンでした。大学の先輩がプロジェクトにかかわっていて、「一度ビルに入ってみたいなぁ」と軽い気持ちで言った私の一言を覚えていてくれ、「明日引渡し」という日の前日に「見に来ない?」と電話をくれました。ところが、どうしてもその日はお客さんとの約束があって時間が空かず、せっかくの機会を無駄にしてしまいました。二度とない機会だったことと先輩の思いやりとを思うたび、「仕事の方をドタキャンしてでも行くべきだった」と、いまだに後悔しています。

西蘭みこと