Vol.0067 「生活編」 〜クラブ生活〜 イギリス人は会員制クラブが大好きです。どこかのクラブに所属し、共通する興味を持つ者同士が集まり、活動やスポーツをともにしたり、グラスを傾けながら延々と続いていくロンドのような会話、会話、会話・・・。その中で社交性や交渉力に磨きがかかり、人脈を広げ、社会性を鍛えていくようです。人によっては会社の帰りに毎日のように立ち寄り、休みにも顔を出し、クラブがなくては夜も日も明けない場合もあるようです。 こうした着かず離れずのメンバーとの関係というのは、普段の生活の中にありそうで、案外ないものです。ほとんどの人は友人と力強く呼べるほど親しくはなく、かといって知り合いというほど距離感のあるものでもありません。出入りしているうちに名前を知らなくてもよく会う人とは自然に会釈を交わすようになりますし、クラブ以外のところで会えば、お互い「Hi!」と声を掛け合ったりもします。 同僚ほど毎日顔を合わせるわけでも目的意識をともにしているわけでもなく、電話番号やEメールのアドレスを知り合うほど近い関係でもありません。あえて言えば同窓生に近いでしょうか?校舎ではなく、クラブハウスという建物を中心に年代が違っても共通の思いがある人たち。ただし、同窓生が過ぎ去った思い出を共有する仲であるとすれば、メンバー同士は今を分かち合っているのです。 同好会とも似ていますが、一番の違いはクラブハウスがあることでしょう。どこかに定期的に集まって一時を共に過ごし、その後は解散というのではなく、常に集う場所があってそこに行けば必ず誰かがいるという状態は、非常に生活に密着したものです。週に何回も、何時間もそこで過ごすことも珍しくはありません。しかも、その場所を維持していくために会費を集め、それを運営していく必要もあります。ですから会長以下、運営委員会が構成され役員が選出され、活動は一時的なものでなく恒常的なものとなります。その結果、存在そのものが強く社会性を帯びた、小さなコミュニティーとなっていくのです。 香港は旧英領ですからこうしたクラブがたくさんあります。私達は夫が所属している関係でラグビー、グランド・ホッケー、サッカー愛好者のための香港フットボール・クラブのメンバーです。友達未満、知り合い以上の大勢のメンバーに混じって食事を楽しみ、スポーツに興じ、パーティーや催しに参加する、ごく一般的なクラブ生活を送っています。私は何よりもこの"ほどほど感"が気に入っていました。 しかし、前々回お伝えしたように、今回のバリ爆破テロで私達のクラブはラガーとその関係者を含め、10名もの犠牲者と何人もの負傷者を出してしまいました。亡くなった3人はラグビー部だけでなくホッケー部にも所属していたこともあり、クラブ全体が衝撃に包まれました。廊下には真っ白な花輪のトンネルができ、キャンドルが24時間絶えることなく灯り、世界中から届いた弔問のEメールやメンバーから提供された犠牲者の在りし日の写真が壁一面に張り出されました。怪我人のための募金も始まり、全身60%の火傷でオーストラリアに入院している、亡くなったラガーの奥さん、ポーリーの目が開いたとわかるやいなや、彼女専用のメールアドレスができ、彼女宛のメールの受付が始まりました。 "ほどほど感"でつながっていたはずのクラブが、あっという間に一丸になり、苦しいほどの哀しみの中で少しでもできることはないか、わずかでも失われてしまった人たちに近づける方法はないものかと、一斉に動き出したのです。誰もが居ても立ってもいられなくなってしまったようでした。私も休暇で行っていた日本から戻るや否や、会社が引けた後花屋に走り、残っていた白い花をまとめ買いしてクラブへ向かいました。皆がお別れの言葉を記帳し、キャンドルに火を灯し、弔問メール読み、故人の写真を見つめ、目を潤ませ、静かに涙を流していました。 普段の生活ではほどほどの距離感にありながら、何かがあればこうして一つになる、それが当然な、どこかで深くつながった人達。事件から1週間後のラグビーの追悼試合では、アメリカ、オーストラリア、シンガポールなど世界のあちこちから、かつてのメンバーが駆けつけ、故人のためにベストのプレーを見せてくれました。頬にいく筋もの涙を光らせながら、黙々とグランドへ向かったラガーメン。その姿を見て、「仲間だったんだ」と気がつきました。友達未満、知り合い以上であったメンバーは、かけがえのない"仲間"だったのです。 *********************************************************************************** 「マヨネーズ」 悪夢のようなバリ爆破テロから2週間が過ぎました。いくら時間が過ぎても失われた人たちは戻ってきません。それでも、「ひょっとしたらどこかの病院で意識不明のまま収容されていないだろうか?」などと夢想しながら、何かを待っているような思いの中、ゆるゆると時が流れていきます。 立ち直れないほどの不幸に見舞われようが、幸福の絶頂にあろうが、時はすべての人に押しなべて平等に降り注いできます。「もう生きては行けない」と明日を信じなくなった人にも、「時間よ止まれ」と今の幸せを閉じ込めてしまいたい人にも。この見事にして残酷なまでの平等さは、まさに神の御技の真骨頂ではないでしょうか。すべての物を有限にせしめたからこそ、人は永遠を夢見続け、ありとあらゆる喜びも苦しみもまた移ろいゆくものなのでしょう。愛する者をこんなにも突然に失わなくてはならなかった人達の苦しみを、時がいつか、ほんの少しでも癒してくれることを祈ります。 西蘭みこと
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