Vol.0114 「NZ・生活編」 〜いつかの白い家〜 今年の2月初旬。ニュージーランドのオークランドを車で流しながら、「移住してきたらどこに住もうか」、などと家族4人で話していた時、市内南西部のマウント・ロスキルからヒルズボロに抜ける道に差しかかりました。両脇はなだらかな丘陵で、四角い積み木を散らしたように、同じような大きさの平屋建ての白い家がたくさん並んでいます。本当に敷き詰められた緑の絨毯におもちゃの家を並べたようです。どこも家と家の間にはほどほどの間隔があり、その隙間を芝やクローバーが埋めています。平屋ばかりのせいか見通しも効き、日本の新興住宅地のような圧迫感はなく、白と緑が青空に映えるなんともスカッとした一角でした。 「"三匹のこぶた"が造る家だね〜」と私がいうと、子供たちはすかさず、「レゴのお家だよ!」と言って、みんなが車窓の外に目を凝らしました。こぶたの次男が造るような横木を重ねて上から白ペンキを塗った木造の家や、三男が造るきっちりレンガを積んで屋根を葺いた家もありますが、いずれも3部屋くらいでほぼ正方形の家です。どこも垣根が低いかないに等しいので、家の角度によっては通りから丸見えになる裏庭には、洗濯物のシーツが翻っています。 私はこんな風景をはるかむかしに見たことがありました。それは子供の頃、家の近所にまだ残っていた駐留アメリカ軍が接収した「大船PX」の居住区です。ネットで検索したところ、施設は1967年に日本に全面返還されているので、その風景は私が5歳までの記憶ということになります。しかし、すべてが一斉に取り壊わされたわけではなかったようで、小学校に入り友だちと出歩けるようになっても、芝の中にぽつんぽつんと建っていたアンテナ以外はほぼ正方形の白い家を何度か見た覚えがあります。 しかし、それらの家は分厚い生垣や高いフェンスに守られ、ほとんど目にすることができず、近くても手の届かないものでした。だから何かの拍子に垣根の隙間からのぞけた時は、ドギドキしながらも食い入るように見つめていたように記憶しています。私がのぞいた風景の中には一度としてアメリカ人なり、誰か人の気配があったことはありません。ただし、廃屋というには、あまりにも美しい眺めでした。「誰か出てきたら・・・」という、子供らしい無垢な緊張が目の前の光景を一段と印象深いものにしていたかもしれません。 当時の単調な日常の中では、最大級にエキゾチックであったであろう「芝生の上の白い家」のおぼろげな記憶は、心のひだのずっと下の方に畳み込まれたまま、本人すら思い出すこともなく、"異国"へのほのかな憧れとして長い間眠っていたのです。あの風景の中に一度として人が立っていたことがなかったために、私は目にしたものを好き勝手にデフォルメし、美化していたかもしれませんが、今では確かめようもありません。 ヒルズボロは私に突然、そんなことを思い起こさせてくれました。しかし、ここでは洗濯物がはためき、子供の自転車が倒れたままになっており、犬がいて車があって、垣根越しに立ち話をする人々がいます。まばゆく降り注ぐ陽のもとで、全く息遣いが感じられないまま美しく佇んでいた廃屋とは到底違います。ここには生活があり、風景全体が生きていました。目の前の"異国"は遠くから憧れるものではなく、「この辺はどこの学区なんだろう?」、「空港までけっこう近そう」などと思いを巡らせることができる、手の届くものでした。私は30数年前の憧れに、いつの間にか片足を踏み入れるところまできていたのです。 「大船PX」が消え、周辺のクローバー畑がなくなると同時に、私が育った横浜の一角では地形が変わるほど山を切り開いての宅地造成が始まりました。恐ろしい勢いで風景が変わり、"一本松の丘"、"のびる畑"、"せりの谷"と勝手に名前をつけていた丘や谷、ザリガニやおたまじゃくしを採った小川やあぜ道が瞬く間に消えていきました。暗くなるまでレンゲを摘み、引きずるほど長い首飾りを作った土手がどの辺だったのか、今では知るよしもありません。私の中の故郷の風景は死に、次々と立ち上がってくる分譲住宅から逃れるように、私は返還されたPXの一角だった地元の高校を出ると、1年で横浜を後にしました。 *********************************************************************************** 「マヨネーズ」 今年のNZ旅行では景気の良さを反映して、オークランドのあちこちで建設現場を目にしました。インフラ整備から個人の住宅まで、あの国でこんなに工事現場を見たのは昨年訪れたクイーンズタウン以外では初めてのことでした。しかし、住宅の多くが土台を作り、柱を立て、屋根を乗せ・・という、子供の頃の記憶と重なる作りだったのには少しホッとさせられました。 小さい頃、大工さんが帰った後の柱しかない建設現場にこっそり入り込み、「ここはキッチン、ここは子供部屋」と、勝手に間取りを決めては友だちや妹とおままごとをして遊んだ思い出があります。それがいつの頃からか家作りは新建材一色になり、学校から帰ってくるといきなり見慣れぬ家ができあがっているようになりました。 物質でありながら人がその中で生を営むという非常に有機的なものであった家が、モノの本来の姿である無機質な工業製品のようになっていくのを見るのは、子供ながらに寂しいものでした。ハイテクを競い効能を重視し、豪華さやその時々の流行を盛り込んでも、むかしの家が個々に持っていたであろう魂のようなものがなくなってしまった気がしました。しかし、無機質な箱は経済成長と豊かさの象徴で、それを建てた主が支配する空間であり、手にしていない人々の憧れでもある、喜ばしいはずのものでした。私は故郷に身の置き場がなくなったように感じ始め、19歳で静かに立ち去りました。 西蘭みこと
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