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Vol.0139 「生活編」 〜バリのレクイエム〜

インドネシアのバリ島一番の繁華街であるクタ。その街を貫くレギャン・ストリート。一方通行の大人3人が手を広げたら端から端に届いてしまうくらいの幅しかない、古くからのメインストリート。「ここですけど・・・」夕暮れの街角で、事情を知ったホテルの運転手は遠慮がちに言いながら静かに車を停めました。「こんなに狭かったっけ?」と思いながら、私は8年ぶりに通りに降り立ちました。車が大きくなり、沿道の建物も高層化したことが通りをますます狭く見せているようでした。

両側にびっしりと軒を連ねる店、レストラン、バー、両替商、旅行会社・・・。私たち一家はその一角の、空への扉が開いたままになってしまったような、緑のフェンス以外何もない場所に立っていました。通りを挟んだ向かい側も更地で、そこだけがガランとしています。フェンスには枯れかけた花束や花輪がくくりつけられ、寄せ書きのある「Fuck Terrorists」と真っ赤に印字されたTシャツ2枚も結びつけてありました。そここそが昨年10月に起きたバリ爆破テロの舞台となったナイトクラブ「サリ・クラブ」跡、もう一つのグラウンド・ゼロだったのです。フェンスの中には瓦礫が妙にきちんと小山をなしている以外、爆破を思い起こさせるようなものは何ひとつ残されていませんでした。

あの事件での最大の犠牲者は地元バリの人々ではなく、オーストラリア人でした。それは爆破が「バリ・テンス」という毎年恒例のラグビー大会に照準を合わせたもので、トーナメントを終えた外国人ラガーメン、特にオーストラリア人がサリ・クラブに例年多数集まることを、犯人たちは重々承知していたからです。試合の高揚そのままに乗り付けてくる丸腰の若者たち。イスラム国インドネシアの中で例外的にヒンズー教を信仰するバリという意表を突く場所での用意周到なテロ。最大の犠牲に向けた非情な布陣は完璧でした。ラガーである夫はこの事件で所属するクラブチームメート8人とサポーター2人を亡くし、職場でもジャカルタ勤務のラガーだったオーストラリア人の同僚2人を失いました。

みなが喪失感にさいなまれていた事件後の12月、クラブの有志主催で犠牲者へのチャリティー・パーティーが開かれました。会場に足を踏み入れたとたん、それがお仕着せなものとは無縁な、誠心誠意の限りを尽くしたのものであることを悟りました。犠牲者を悼む人のみならず、ラグビーを愛する有名無名の人々が世界中から駆けつけ、基調演説からステージ上でのビール瓶をくわえたままでの一気飲み、チャリティー・オークションまで、各人ができる限りの力を尽くした結果、一晩で9000万円近い寄付が集まりました。いくら物価が高い香港とはいえ、これは生半可な数字ではありません。

パーティーではNPO(民間非営利組織)の専門家が、「テロ行為を断固許さないためにも、精神面だけでなく経済面でも壊滅的打撃を被ったバリを一刻も早く立ち直らせる必要があります。ですから休暇には是非バリへお出かけください」と、痛手の大きさを物語る数字を次々にスクリーンに映し出しながら、雄弁に語りかけていました。私たち夫婦は説明に耳を傾けながら、「次の夏休みはまたバリにしよう」と小声でささやき合い、思いつきもしなかったかたちでの支援の仕方を学んだのでした。その後、予期せぬ新型肺炎(SARS)の蔓延で飛行機に乗ること自体が危ぶまれる時期もありましたが、私たちは計画遂行を決め、日本の滞在を1週間早く切り上げ、香港に戻ったほぼその足でバリに出かけたのです。

夫はみんなが好きだったフィリピン・ビールの「サンミゲル」を一ダース近く携えてきていました。缶ごとに犠牲者一人一人の名前を記したのは私の思いつきです。事件後、クラブハウスのスポーツバーでは犠牲者の名前をつけたビール缶ほどの太さのキャンドルに火を灯し、その火を何日も絶やさずにいたのを思い出したからです。練習でも試合でも、ラグビーにはビールがつきものです。プレーした後で浴びるほど飲んでは語らい、笑い合い、ジョッキを片手に長い長い男たちの時間を過ごすのです。フェンスの向こうに腕を伸ばし、かつてのチームメートの名を呼びながら、一缶ずつビールを注いでいる夫の姿を見ながら、彼らがここで命を無くしたということが私にとって急にリアルなものになりました。それはテロという非常な死のみならず、故郷を遠く離れた客死でもあったのです。

一瞬にして肉体を失った魂は、どんなにか愛する者の元へ帰りたかったことでしょう。見知らぬ地での突然の死を受け入れられずに、なかなか成仏できなかったかもしれません。どれほど無念だったことか。その痛みは逝った者にも、残された者にも想像を絶するものだったことでしょう。残された者には、目覚めた時に自分がまだ生きているのが不思議なほどの痛みだったかもしれません。何をもってしても彼らの魂を慰めることはできないのかもしれませんが、その死を忘れずにいることで、突然に失われた一つ一つの輝きをいつまでも心に刻んでいこうと思います。忍び寄ってくる生温かい異国の夕闇を背後に感じながら、祈り続けたのは心からの鎮魂。どうか、どうか、彼らに常しえの安らぎを。

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「マヨネーズ」  私たちはビールを撒いた後、空になった缶を並べ、その前に南国のフルーツを並べました。始めは足を止める人もほとんどいませんでしたが、そのうちTシャツの寄せ書きに見入る人、写真を撮る人、フェンスの中をのぞき込む人が現れました。それぐらい何気ない、そぞろ歩いていたらついつい見過ごしてしまいそうな一角でした。

お参りの後、食欲もないままに近くでピザとサラダの簡単な夕食を済ませ、再び戻った時のこと。缶とフルーツがきれいになくなっていました。缶はリサイクル向けに売られ、フルーツは誰かの胃袋に収まったようで、食べかすが落ちていました。「これが今のバリの現実なんだろうな」と夫は静かに言い、もう一度、名残惜しそうに手を合わせていました。

西蘭みこと