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Vol.0181 「生活編」 〜戦争のある暮らし その2〜

「もしも戦争が始まったらどうするの?」 冗談とも思えない母の一言を前に、私は力が抜ける思いでした。小学校の高学年だった私と3歳年下の妹が今しも布団に入ろうとしていた時、母が部屋に入ってきて、脱いだ服がたたんでないことを叱りきれいにたためと言い出したのです。それ自体はどこの家にでもありそうな話ですが、そこから先が他の家とはちょっと違っています。

母はたたんだ服を上に羽織るものを一番下にし、着る時の順番通りに積み上げて一番上に靴下を置くように言いました。何のためにそんなことをするのかと言うと、電気を消した部屋でも着替えられるようにです。なぜ暗闇で着替えられなくてはいけないのかと言うと、答えは冒頭の一言となります。母は、子供だった第二次世界大戦中、夜中に空襲警報が出るたびに真っ暗闇の中で着替えを済ませ、防空頭巾を被って防空壕に避難したという話を繰り返し語っていました。それは、二度とあってはならない辛い経験を私達に伝えようとするものであった一方、小さかった自分がいかにしっかりしていたかをさり気なく強調している節もあり、「もっとしっかりなさい」というニュアンスも濃厚でした。

幼かった私はこの手の話を毛嫌いしていました。早乙女勝元の「東京大空襲」を読んだのは中学に入ってからでした。昭和40年代の平和そのものの時代の戦争体験談は非現実的で、つつがない日常にケチをつけるものに思えました。それに輪をかけて、体験談が「戦争を知らない子供たち」に対して、優越感を持って語られることにも我慢ができなかったのです。「今さら何を言ってるの?お母さん達は運が悪かっただけ。日本がまた戦争なんかするはずないじゃない。」と、内心にトゲを隠しながら、「電気を消したまま着替えられるか、練習してから寝なさい」という母の言葉を無視して、さっさと寝てしまいました。

「もしも、戦争が始まったら・・」の問答は、当時の生活の中で何度も繰り返されました。その度に私が言ったのは、「どうしてまた戦争しなくちゃいけないの?何であの頃の大人はしたの?」ということでした。それに対する母の答えもいつも同じで、「誰にも止められなかったのよ。そういう時代だったの。」という、子供にはなんとも歯切れの悪い、まったく説得力のないものでした。子供だった、当時の母には戦争責任はありません。加害者の国の被害者です。しかし、「そういう時代だった」と言い切り、暗闇で着替えられることを評価する姿勢は、私には「戦争の存在を受け入れてしまっている」としか映らず、解せないものでした。「戦争なんてもう絶対ない。あるわけない」と、私は冷ややかでした。

あれから30年以上の歳月が流れ、「絶対ない。あるわけない」はずだった戦争が、視野に入るほどに近づいて来てしまいました。自衛隊はイラクへ行き、"国際貢献"をするんだそうですが、これは戦争の始まりでしょう。自国を守る立場の人がわざわざ前線まで出向いていくのですから、明白な宣戦布告と敵の特定をしないだけで、私の目にはなし崩しの開戦に見えます。派兵には"復興支援"という名目がついてはいるものの、支援先となるイラク国民がそれを額面通り受け取ってくれなければ、英米軍による占領への援軍にしか見えないことでしょう。国連さえもテロの対象となる状況ですから、自ら何と名乗ろうと、イラクの人たちが聞き分けてくれる可能性は低そうです。

しかも、世はアメリカを中心に "復興"というチーズをまぶした"イラク・ピザ"の分捕り合戦に目の色を変えているところでもあり、私には"国際貢献"が"米英貢献"(北朝鮮有事の際の"貸し"作り)、"復興支援"が"日本経済支援"としか読み解けずにいます。子供に正面切って、「どうして日本のアーミー(戦後の経緯を知らない彼らには当然のことながら"軍隊"にしか見えません)もイラクに行くの?」と聞かれても、明確に説明できずにいますが、これは奇しくも30年前の母とのやり取りの繰り返しです。子供の「なぜ?」に親は「誰にも止められないの。そういう時代なの。」と答えなくてはいけないのでしょうか?

私ごときが指摘するまでもなく、マスコミではあまたの有名無名の戦争経験者が現状と第二次世界大戦勃発時の酷似を指摘しています。前大戦が始まった際にも、安全で何も失うものがないままアジアに貢献でき、本土決戦などあるはずないと説明され、国民はそれを信じていたのではなかったでしょうか? 「南洋や満州に渡れば一旗挙げられる」と、未曾有の商機到来と認識されていた点も良く似ています。派兵後にひとたび日本国内で大規模テロでも起きれば、それはすなわち"本土決戦"を意味することになるでしょう。大戦中の占領地で巨万の富を築いた人たちがその後どうなったかを考えれば、"商機"は火中のおいしくもない栗を拾うことにもなりかねません。

私が「戦争のある暮らし」というタイトルでメルマガを配信したのは、約1年前の去年の10月でした。あの時、インドネシアのバリで起きた爆破テロで、夫はラグビーチームの仲間を10人と同僚2人を失いました。「戦争と隣り合わせで暮らしていくことが現実になってしまった」と覚醒させられましたが、私達はたった1年ですっかり戦争慣れし、今や"隣り合わせ"から"当事者"へと更に踏み込もうとしています。2003年の終わりに当り、改めて祈ることは唯一つ。LOVE&PEACE!

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「マヨネーズ」 一年の終わりにこんな内容を配信すること自体、非常にやるせない思いです。どこででも言われていることですが、「テロを克服する」のではなく、「テロのない社会を作る」ことを本気で考えていかない限り、事態が完全に収拾し犠牲者が増えなくなることはないのでしょう。憎しみや不信を力づくで封じ込めることはできません。株式市場では「イラク復興銘柄」が囃されもしますが、それを生業としなくなったことに感謝しています。

西蘭みこと