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Vol.0207 「生活編」 〜ペットプロジェクト その3〜

約束の時間に預けていたピッピを迎えに行くと、獣医のドリスは腕組みをして待っていました。「心配だわ。」 彼女は開口一番に言いました。診察台のピッピは緊張と寒さで蒼ざめていましたが、悪魔がすぐ傍まで来ていた2日前の夜に比べたら、ずっとしっかりしています。しかし、ドリスにとっては、ここまで衰弱したピッピを見るのは初めてでした。彼女の心配が生死を問うものであることは明白でした。

「これ以上化学療法を続けるのはピッピのためにならいかも」と、彼女が切り出した時、私は正直言って驚きました。医者としての敗北宣言です。「余命は化学療法をしなければ3ヶ月、すれば6ヶ月」と言っていたのですから、治療が始まって12日目、6〜8週間と言われた化学療法4分の1で、早くも答えが出てしまったのです。私は彼女の率直さと誠実さに感謝し、今回、彼女と組めて良かったと思いました。私の腹はすでに決まっていたので、言い出されなくても、自分から切り出すつもりでした。「賛成だわ。止めましょう。」 私は心から安堵していました。

化学療法を始めてから一切食事を摂らず、水さえ飲まなくなってしまったピッピの食欲は、止めても戻りませんでした。体重は7キロ近くから5キロ以下へと3割も落ちてしまいました。自宅で点滴を続け、わずかな流動食を与えながら4日が過ぎました。再びドリスを訪ねると、彼女は診察台を挟んで私と向き合いながら、「食欲増進剤を処方するわ。そうでなければ鼻から管を入れないと」と、言いました。彼女の主張は医者としては正しいのでしょうが、受け入れがたいものでした。「鼻の管までするつもりはないわ。それに私達はもう薬を止めたんじゃなかったの?」と反論すると、「止めたのは化学療法。治療を続けないで、このまま放っておいたら・・・」と言いかけ、ドリスは口をつぐみました。

いかなる薬もあげたくはありませんでした。上を向かせ、あごを開かせ、錠剤を投げ込んでは、ガン細胞ともどもピッピ自身を痛めつけてきてしまった張本人としては、違う薬であっても恐怖と嫌悪感は拭えません。「せめてピッピが水を飲み出すまで待ちたいの。生きようとするサインを確認したいの」と、言葉を濁した時、ふと視線を感じました。私とドリスの間で腹ばいに寝かせられていたピッピが首をもたげ、しっかりと私を見ていました。その時、頭の中をはっきりと、「YA・ME・TE」という言葉が横切ったのです。

耳で聞いたのでも、思い浮かんだのでもありません。脳が直接メッセージを受け取ったのです。「ピッピと話せた!」という感動をひた隠しながら、「水も飲まなければ、食べ物の匂いさえかがず、食欲のかけらさえ感じられないのに増進剤をあげても結果は同じでしょう? ピッピは薬で十分苦しんだわ。もうこれ以上苦しめることはできない。」と、背中を押されるように、しかし自信を持って答えました。

「じゃあ、医療としてはもうすることがないってこと?」
「その通りよ。後は点滴とサプリメントで失った機能の回復を待つわ。」
「それがダメだったら?」
自分の手を離れつつある患者を無念そうになでながら、ドリスが聞きました。"Well,I'll let him go…"驚いて顔を挙げるドリスと私の目が、カチリと音を立てて合いました。化学療法を決め、お互いの目をのぞき込みながら意志を確認したあの時のように・・・。ただし、今回見つめ合った目は互いに潤んでいました。「そう。そこまで覚悟ができてるなら、何も言うことはないわ。ピッピが苦しまないことを最大限に考えましょう。残されたクオリティ・オブ・ライフが少しでも続くように・・・」と言うと、ドリスは目を伏せました。

野生動物であれば餌が摂れないどころか水も飲めない状態であれば、先は死しかありません。しかし、ピッピは1日10時間の点滴と口の脇から差し込まれる流動食で生かされています。「元気になって欲しい」という切なる願いで、一心に看病してはいるものの、「これは自然の摂理に適ったピッピの死を邪魔しているだけなんだろうか?」と、ふと疑問に思うこともあります。ピッピ自身が生きたいのか、ここで終わりにしたいのか、わからない以上、答えは簡単には見つからないでしょう。

しかし、ピッピは今でも何のためなのか、単なる本能なのか、1日1回は爪を研ぎ、抱き上げれば両足を私の胸につけ、手を差し伸べてくる赤子のように応えます。化学療法前は抱かれるのがあまり好きではなく、こんな風に応えることはまずありませんでした。私はこれらを、生きることへのささやかな意思表示と受け取り、日々の看病の糧としています。「ピッピは死ぬ機会を奪われ、無為になってるんじゃない。内臓が痛めつけられ、嗅覚も失ってしまったかもしれないけど、ただただじっと回復を待っているだけなんだ」と。

そんな矢先、点滴針を外していると、ピッピが目の前に差し出された私の掌に顔を突っ込んできました。そして鼻を滑らせるようにしています。まるで匂いを嗅ごうとしているのにどうしたらいいかわからないか、生まれてから化学療法前までずっと続けていた私の掌を舐める癖を思い出そうとしているかのようです。思わず目頭が熱くなりました。思い出そうとしている。生きようとしている。これはピッピからのサインなのです。「ありがとう」 私はピッピを抱きしめながら、小さな鼻の前に掌を差し出し、かすかなサインを受け止めていました。この「ペットプロジェクト」は必ず成功させます。

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「マヨネーズ」 「ピッピちゃん、がんばれ!」というたくさんのお見舞いをいただき、最近のピッピは生涯初めて"ちゃん付け"で呼ばれるようになりました。ね?ピッピちゃん?

西蘭みこと