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Vol.0215 「NZ・生活編」 〜NZへの橋 引越し編〜

引き金を引いたのは意外な人でした。「検討した結果、7千ドル値上げしたいんだが・・・」と、落ち着きながらもどこか嬉しそうな声が、受話器の向こうから聞こえてきました。7千香港ドルと言えば、10万円相当です。私達の大家は家賃を月々10万円値上げしたいと言ってきたのです。「今までが安過ぎたんだ。この金額を呑んでもらわない限りは、今年いっぱい契約を延長するという話は受け入れられないね。」 私が常々"ポーカーボイス"と呼んできた彼の声がいつになく弾んでいたのは、彼なりに勝負に出たためだったのです。
(←いよいよこの家、この坂ともお別れ)

これまで2年半、何の支払いトラブルもなかったテナントを諦めてでも、もう10万円上乗せした金額を払ってくれる、別のテナントを探すことへの熱意と自信が感じられました。空白期間ができれば10万円どころか、元々の家賃も入ってこないわけですから、いくら香港の景気が回復してきたとはいえ、それなりの賭けです。特に私達が入居するまで、半年以上も空室だったという苦い経験を踏まえれば、なおさらです。

「そう、わかったわ。じゃ別を当たることにするわ。」と、私はあっさり引きました。もう10万円払うのが惜しいのはもちろんですが、それ以上に強く背中を押された気がして、瞬時にここを出ることに決めました。
「ご主人に相談しなくていいのか?」
「いいでしょう。その金額で彼が同意するとは思えないし。最終日は確か6月末よね。」
「そうだ。」
「わかったわ。どうも、ありがとう。また電話するわね。」

「引っ越そう。この先どうなるかわからないけど、ここを出よう!」 受話器を置いた時には、すでに気持ちが固まっていました。いつニュージーランドに行くかわからない私達に、最低でも14ヶ月分の家賃を保証しなくてはならない新規契約は、あまりに負担が大き過ぎます。ですから、これまでの半年のように、2ヶ月ずつ契約を延長しながらここに住み続けるのは得策でした。しかし、正式契約はとっくに切れており、延長は双方合意のもとでの任意のものでした。状況は値上げを受け入れるか、引っ越すか二者択一でした。

その後の夫の行動は、いつも通り目覚しいものでした。翌日には歩いて10分のところに、「ペットも
OK」というサービス・アパート(日本でいうウィークリー・マンション)を見つけてきました。「家賃は今より10万円下がる。広さは今の半分ちょっとってとこかな?割高だけど、リネン・掃除サービスが週2回、公共料金・管理費すべて込みだから、まあまあでしょう?10階以下の低層だと一戸だけ空きがあって、6月以降の予約も可能。どう?見てみたい?」

ということで、さっそく夫婦で下見へ。変わった立地に立つ、かなり変則的な間取りではあるものの、どの部屋も日当たりがよく、小さいながらもバルコニー付きでした。所属する会員制クラブと競馬場が一望できる眺望もなかなかで、予想以上に気に入りました。「スクールバスのバス停まで3分、クラブまで5分。スーパーも徒歩圏内。洗濯機は無料で使いたい放題。ケーブルテレビ、ブロードバンドも
OK。裏庭でバーベキューぐらいできるんじゃないか?家具・家電完全装備で食器や鍋釜も付いてるから、引越し業者に頼まなくても、荷物は自分たちで運べるだろうね。持ってくる家具はキミのビーズ机とボクのピアノくらいでしょ?これだけは運送業者に頼んで。クルマはもう諦めるんだろうな・・・」

まるで紙芝居を見せられているように、どんどん話が進んでいきます。ここに越してくるには、家財のほとんどを処分しなくてはなりません。ニュージーランド行きが決まれば当然そうするつもりでしたが、まだ決まってもいない、行かれない可能性さえある現段階で踏み切ることは大きな賭けです。移住できなければ、ベッドや洗濯機をもう一度買い直すはめになるかもしれません。しかし、今それを考えても始まりません。決心はつきました。

「橋を渡ろう。」 人生で大なり小なり決断を迫られた時、私はいつも頭の中に一本の橋を思い浮かべています。「向こう側に何があるのか?果たして渡る価値があるのか、ないのか?」 今回の場合、"向こう側"は間違いなく「NZ」です。"渡る価値?"、もちろん「YES」です。香港に留まるという退路を絶ち、完全な"移住モード"に入るわけですから、それを切望する者として、迷いはありません。しかも、風通しのいい陽光が降り注ぐ家を見て、心配よりも元々大好きな引越しへの期待に抗しきれなくなっていました。

10万円の値上げといってもべらぼうな話ではありません。比較的景気が良かった入居時には、私達はそれ以上の金額に同意していました。その後、景気悪化とともに何度か家賃交渉し、今払っている金額以下にまで値下げしてもらったこともあります。ですから景気回復とともに大家が値上げを主張するのは最もなことでした。結果的にそれが背中を押してくれ、私達ははからずも、より真剣に、移住に向かって橋を渡ることになりました。感謝の気持ちをこめて振り向けば、彼もまた別の橋を渡らんとしているところでした。Good Luck!

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「マヨネーズ」 いい大家さんでした。彼は大手外銀の幹部です。だからこそ私は積極的な家賃交渉に出ました。相場のことがわかっているプロ相手に、景気連動型家賃を徹底的に追求したのです。お互い"金融"という共通言語を話す者同士、「今の相場を知らないとは言わせない」の心意気でした。「やっかいなテナントをつかんでしまった」と、思われたかもしれませんが、彼はいつも真摯で、ずい分市況の話もしました。今や懐かしい思い出です。

西蘭みこと

   
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